札幌ホッケー連盟

札幌ホッケー連盟 概要

沿革

設立年月日 1939(昭和14)年8月20日
札体協加盟 1939(昭和14)年8月20日

設立目的

札幌ホッケー連盟は1393(昭和14年)年に創立

札幌市にホッケーが始まったのは、1927(昭和2年)年のことで、北大・北海中と翌年に札幌商業にホッケー部が創設され、1929(昭和4年)年に社会人チーム札幌クラブが誕生した

A 協会・団体名

(団体)北海道ホッケー協会、北海道学生ホッケー連盟、北海道高等学校体育連盟ホッケー専門部、札幌ホッケー連盟。
(チーム)ウインズ、東京農業大学、札幌大学、北海道大学、札幌国際大学、札幌大学女子、北海道大学女子、北海高校、北海学園札幌高校、江別高校女子、札幌新陽高校女子、北海学園札幌高校女子、島松少年団(以上日本ホッケー協会登録)。

北大OB、北海道ホッケークラブ、札幌ホッケークラブ、札幌ユニティ女子、江別高校OG、女子(以上北海道ホッケー協会登録)。

B 概要・組織・沿革

競技は、例年5月上旬から10月下旬の日曜日を主として開催する。協会主管の大会は、春季の会長杯ホッケー大会、北海道スポーツ少年団ホッケー交流大会、夏の北海道ホッケー選手権大会、国体競技北海道予選会、北海道ジュニアホッケー選手権大会、秋の岩田杯ホッケー大会があり、他に学連主管の春秋大会、高体連主管の高校選手権大会、高校ホッケー秋季大会がある。札幌連盟主管では札幌市民大会ホッケー競技会がある。北海道ホッケーの沿革と、協会および加盟チームの変遷は次のとおりである。

大正15年(1926年)に北大アイスホッケー部員が、夏季鍛錬のため、陸上ホッケーを取り入れたことが、北海道ホッケーの曙である。翌1927年2月の北大本科・予科にホッケー部が設立され、同部員の働きかけにより、同年4月北海中学、苫小牧工業にホッケー部が設立、同年6月に第一回北海道選手権大会(東京朝日新聞社札幌通信局主催朝日カップ争奪戦)が開催された。1928年には札幌商業も初参加、第二回大会を持った。1928年には札幌クラブ(OB)ができ、6チームとなり、6月に北海道ホッケー連盟結成の運びとなった。この年の8月に大日本ホッケー協会北海道支部として承認された。1930年に苫小牧工業が脱退、小樽協会が加盟した。太平洋戦争勃発でホッケーが中止されるまで、北大・同予科・北海中・同OB・札商・同OB・小樽協会で、道内大会を持ち、各種全国大会に出場している。1947年終戦により協会も復活し、各チームも活動を開始した。チームは小樽協会を除く前記6チームである。その後教育制度改革により北大予科は消滅、北海高、札商高(2004年学園札幌高校に名称換え)となった。1951年グレートウイング、1954年北海学園大学(1986年脱退)、1955年北斗女子高(1960年脱退)、1958年慈恵女子高(現札幌新陽高校)、1960年富士鉄室蘭(新日鉄)、1967年札幌クラブ、1969年北海道工業大学(1974年脱退)、1970年豊門クラブ、日大白老高、1973年札幌大学、1986年札幌学院大学、1990年東京農大網走高、1994年北大女子、札大女子、1993年江別高校女子、2004年学園札幌高校女子、札幌国際大学の加盟や脱退などがあり、現在のチーム数となっている。また1990年東京農大網走校の加盟と共に北海道学生ホッケー連盟を発足させた。

C 功績者の活躍・エピソード

創設時の功績者は、北大ホッケー部初代主将の岡村正家他アイスホッケー部員といえる。シーズンオフの練習のためである。グラウンドも自由にならないため、遠い円山公園のローンで、ガイドブック片手にコツンコツンと打ち始めた。1926年の花見時であり、人々にゴルフと間違えられ、不思議がられたと、本人が記している。その夏に東京の大学でホッケーをやっている3人の学生が帰省し、北大をコーチした。東大の佐藤昌彦、明大の藤田孝之、法大の宮越高良である。佐藤は北大総長佐藤昌介の長男であり、卒業後北大に勤め、監督および協会の創設に努めた。藤田は道庁に勤務し札幌クラブを、宮越は小樽に帰り小樽協会を組織している。初代の北海道ホッケー連盟会長は、札幌連隊区司令官加藤真一である。加藤は陸軍戸山学校でホッケー創設時(1922年)の教官であり、大日本ホッケー協会の創立時の会長代理であり、ホッケーこそ七つの海を制した英国魂の精華と考えていた人である。道の春秋トーナメント優勝旗である加藤旆を寄贈し、大会は加藤旆争奪戦として、その名は永く親しまれてきた。初代副会長は北大理学部教授田所哲太郎であり、北大文武会ホッケー部長として部の創設、グラウンド整備などに尽力し、後に連盟の会長になり、1935年には北海道ホッケー競技誌を発行している。札商の初代監督は陸軍戸山学校でホッケーをやっていた南留三郎である。ファイトに満ちた人で、猛訓練で部員を鍛え上げ隣の北中と互いに刺激し合い、両校とも後に日本代表選手を多数輩出するようになった。

戦後復活した北海道ホッケー協会の会長は岩田政勝である。岩田は慶応大学卒業後、実業の醸造業を営む傍ら、北海道の文学活動を援助し、またホッケー協会では、永い間(31年間)会長として協会内部をまとめ、戦後の黄金期を築くのに貢献した。岩田杯ホッケー大会は現在まで続いている。1954年の北海道大会に貢献した協会役員として、関根三一(札商)、武笠耕三(北大)、安原義晴(北海)、富田実(北大)、山田三郎(札商)、脇坂久(北海)、栗林作衛(札商)、住友益人(札商)が挙げられる。戦後の札商・北海両校の活躍は目覚ましいものであり、主力選手は明大、法大、早大などに進学、日本代表として多くの国際大会に出場した。特に黒済雄孝(札商・明大)は傑出した技能で魅了し、後に日本代表のコーチ・監督として、大きく貢献し、1958年度日本スポーツ賞(読売新聞社)を受賞した。1964年には勇崎恒也・三輪宏、岡部道夫、若林徹也、勇崎勝弘、武田守洋の6名が東京オリンピックに出場し、国体に優勝した札商と共に、この年の北海道スポーツ賞を受賞している。勇崎恒也(北海・明大、現協会副会長)は1965年度日本スポーツ賞(読売新聞社)、1966年度北海道スポーツ賞を受賞した。後に日本代表コーチ・監督をやり指導者として、さらに協会役員として長くホッケー界のための尽力している。1973年日本ホッケー協会50周年記念式典では、岩田政勝、武笠耕三が表彰を受けた。

岩田政勝退任後は、斉藤源治(札商)、窪田昭(札商・明大)と続き、現在は深津和三(北大)である。また1990年発足した北海道学生ホッケー連盟の初代会長は小林博(北大)、次いで深津和三、前林和寿(札大)と続いている。学生連盟の連絡・運営・維持については青山秀隆(北海・東京農大)が大きく貢献した。

D 主な施設の現況

道立野幌総合運動公園ホッケー場(人工芝・一面)

E ブロックの活躍、特色

(全国大会優勝)
全国中等学校大会(旧制);札商(1937)(1947)
全国高等学校大会(旧制);北大予科、(1930)(1942)
全国高等学校大会(新制);札商(1948)インターハイ・国体兼(1966)、北海(1951)
明治神宮大会(地方);全北海道(1929)、(大学専門学校);北大(1933)、(中学);札商(1937)
国民体育大会(中学・高校);札商(1947)(1948)(1961)(1964)、北海(1951)(1954)・(一般男子)全北海道(1954)(1965)(1967)(1972)(1973)、札商OB(1955)(1958)、札商ク(1960)
国立大学戦(旧帝大戦);北大(1951)(1975)(2004)

全国大会の戦歴を見て分かるように、高校ホッケーでは1966年、一般では1973年を境にして活躍していない。丁度この頃から、日本ホッケー界では現在活躍している名門校が台頭している。北海道ブロックは、いわば新しいホッケーの動きに追随していけなかったことを示している。しかしながらそれまでの北海道ホッケーの活躍は見事であり、多くの卓越した人材を生み、日本ホッケーの発展に寄与したことは特筆されるべきである。

F 将来への抱負・ジュニアーへの期待

北海道高校ホッケーの現在の衰退振りは、中学校でホッケーがほとんど行われていないことも一因となっている。協会としてもスポーツ少年団やジュニアー選手権に力を入れているが、本格的な推進にいたっていない。ジュニアーへの普及をどのように進めるかが今後の課題である。また高校・大学チームの先細りをなくし、参加チームを増やすことも急務であろう。

G その他特殊な動向など

北海道は広く、ホッケーの活動は札幌地区に限られている。東京農大網走校の参加により、地方に足がかりを得て、学連の大会を網走で持ったが、札幌からの大挙移動など問題があり、一回限りとなっている。冬が長くグラウンド使用が、5月から10月上旬に限られることもネックとなる。しかしながら夏の北海道は素晴らしい環境であることから、この時期での全国大会や、本州からの練習合宿など勧誘することも、普及の拡大に役立つであろう。

事務局連絡先

郵便番号 060-0009
住所 札幌市中央区北9条西23丁目 1-3 勇崎様方
団体名 札幌ホッケー連盟
電話/FAX 011-621-6607